SPXS の基本情報と「保険」としての発想
SPXS (Direxion Daily S&P 500 Bear 3X Shares) は、S&P500 指数の日次リターンの -3 倍に連動するインバース ETF である。経費率は 1.01% で、Direxion が運用する。S&P500 が下落すれば利益が出るため、ポートフォリオの「保険」として使えないかという発想が生まれる。
保険としての考え方はこうだ。ポートフォリオの 5% を SPXS に配分する。平常時は SPXS が減価し続けるが、これを「保険料」と見なす。暴落が来た時に SPXS が急騰し、ポートフォリオ全体の損失を軽減する「保険金」を受け取る。
この発想は直感的には魅力的だが、数学的に検証すると、ほとんどの場合「保険料が高すぎる」という結論に至る。以下で具体的に計算する。
減価コストの計算 - 月次・四半期・年次
S&P500 の日次ボラティリティを 1.0% (年率約 16%) と仮定する。SPXS の月次減価率は近似的に -9 × (0.01)² × 21 / 2 = -0.95% となる (21 は月間営業日数)。これにトレンド要因 (S&P500 の月次平均リターン +0.8%) の -3 倍 = -2.4% を加えると、月次の期待損失は約 -3.4% だ。
四半期では複利効果により約 -10%、年次では約 -35% の減価が見込まれる。ポートフォリオの 5% を SPXS に配分した場合、年間の「保険料」はポートフォリオ全体の 1.75% (= 5% × 35%) に相当する。
S&P500 の長期平均リターンが年 +10% であることを考えると、保険料 1.75% はリターンの 17.5% を毎年削ることになる。10 年間保険を掛け続けると、複利効果で累積コストは無視できない水準に達する。
損益分岐点の計算 - 何%の暴落が必要か
SPXS を 1 ヶ月保有した場合の減価コストは約 -3.4% だ。この「保険料」を回収するには、1 ヶ月以内に S&P500 が何%下落する必要があるか。SPXS は -3 倍なので、S&P500 が -1.13% 下落すれば SPXS は +3.4% 上昇し、減価コストと相殺される。
しかし、これは「元を取る」だけであり、保険として機能するには S&P500 がさらに大きく下落する必要がある。ポートフォリオの 95% が S&P500 に連動していると仮定すると、S&P500 が -20% 下落した場合、ポートフォリオの損失は -19% (= 95% × -20%)。一方、SPXS の 5% 配分は +60% (= -3 × -20%) で +3% の利益を生む。ネットの損失は -16% だ。
SPXS なしの場合の損失 -20% と比較すると、4% の損失軽減効果がある。しかし、この -20% の暴落が 1 年以内に起きなければ、年間保険料 -1.75% が無駄になる。2 年間暴落が来なければ -3.5% のコスト。統計的に S&P500 が年間 -20% 以上下落する確率は約 5% であり、期待値計算では保険料の方が高くつく。
プットオプションとの比較
ポートフォリオの保険としては、SPXS よりプットオプションの方が効率的な場合が多い。S&P500 の 3 ヶ月アウト・オブ・ザ・マネー (OTM 5%) プットオプションのコストは、ポートフォリオの約 1-2% だ。
プットオプションの利点は、損失が保険料 (プレミアム) に限定される点だ。SPXS は市場が上昇し続ける限り際限なく減価するが、プットオプションは満期時に無価値になるだけで、それ以上の損失はない。また、プットオプションは暴落時のペイオフが非線形であり、大暴落ほど保険金が大きくなる。
SPXS がプットオプションに勝る点は、取引の手軽さと流動性だ。オプション取引には専用口座が必要で、ストライク価格や満期の選択に知識が求められる。SPXS は通常の株式口座で売買でき、いつでも手仕舞いできる。この手軽さが SPXS の存在意義だが、コスト効率ではオプションに劣る。
実際の暴落事例での検証
2020 年 3 月のコロナショックで検証する。S&P500 は 2 月 19 日から 3 月 23 日まで -34% 下落した。この期間、SPXS は +90% 以上のリターンを記録した。ポートフォリオの 5% を SPXS に配分していた場合、+4.5% の利益が生まれ、95% の S&P500 ポジションの損失 -32.3% を部分的に相殺し、ネット損失は -27.8% となる。
しかし、2020 年 1 月 1 日から SPXS を保有していた場合、1 月〜2 月中旬の上昇相場で既に -15% 程度減価しており、暴落時の実効リターンは低下する。さらに、暴落後に SPXS を手仕舞いするタイミングを逃すと、4 月以降の急反発で利益が全て消える。
2022 年のベアマーケットでは、S&P500 が年間 -19% の下落を記録した。SPXS の年間リターンは +30% 程度だった (理論上の +57% には遠く及ばない)。5% 配分で +1.5% の利益、95% の損失 -18% と合わせてネット -16.5%。保険効果は 2.5% にとどまり、前年の保険料コストを考慮するとほぼ相殺される。
保険戦略の改良案
SPXS を常時保有する「定額保険」ではなく、VIX が低い時期 (市場が楽観的な時) にのみ SPXS を購入する「タイミング保険」の方が効率的だ。VIX が 15 以下の時に SPXS を購入し、VIX が 30 を超えたら売却する。
この戦略の利点は、VIX が低い時期は S&P500 のボラティリティも低いため、SPXS の減価率が小さくなることだ。保険料が安い時に保険を買い、保険金が必要な時 (VIX 急騰 = 暴落) に売却する。
ただし、この戦略にも限界がある。VIX が低い状態が長期間続くと (2017 年のように)、減価コストが累積する。また、暴落は VIX が低い状態から突然始まることが多く、「VIX が低い時に買う」は結局「常に持っている」に近づく。リスクヘッジの実践書でヘッジ戦略の全体像を把握することを推奨する。
結論 - ほとんどの場合、保険としては高すぎる
SPXS をポートフォリオの保険として使う戦略は、数学的に検証すると期待値がマイナスである。年間保険料 (減価コスト) が 1.75% に対し、保険金 (暴落時の利益) の期待値は統計的にそれを下回る。
保険が「元を取れる」のは、S&P500 が短期間に -20% 以上暴落する場合に限られ、その確率は年間 5% 程度だ。20 年に 1 回の大暴落に備えて毎年 1.75% を払い続けるのは、複利の観点から見て合理的ではない。
暴落への備えとしては、現金比率の引き上げ、プットオプションの購入、あるいは単純にポジションサイズの縮小の方が、コスト効率に優れる。SPXS は「保険」ではなく「短期トレーディングツール」として割り切るべきだ。